【Caution!】

こちらの小説は全て作家様の大切な作品です。
無断転載・複写は絶対に禁止ですので、よろしくお願いします。
★エロし ★★いとエロし!
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 イルカが教員室で明日の授業のためのプリントを作成していると、上忍が下校中の我が子を拐って逃走中という緊急連絡が入り、アカデミーの教員全員に召集がかかった。
 同じく小テストを作っていた同僚の手巻ノリが、イルカと同時に立ち上がって教員室を飛び出す。
「誘拐された子供って知ってるか?」
「日向の分家筋だそうだ。イルカは学年が違うから直接は知らないだろうが、子供は母親の苗字に変わって日向アジサイになったんだ」
「……そうか」
 緊急事態のパターンの一つ、『ハの弐』を知らせる曲が校内放送で流れているので、教員があちこちから裏門の所に集まってきた。
 そこには里に待機していた上忍数人と、白い獣面を付けた者まで立っている。子供一人の追跡、保護にしてはずいぶん大がかりだとイルカは思ったが、追いつめられた上忍と日向の子供という組み合わせだからだろう。なんにせよ手厚いサポートがあるのは有り難い。
 教頭がアカデミー側の陣頭指揮を執り、現在は子連れで死の森に逃げ込んだ上忍を、里にいた上忍あるいは暗部と教員のツーマンセルで追う指示をする。
 上忍側の陣頭指揮を執る情報部の者によると、木守上忍は以前から他里と通じてる疑惑があり、ずっと内偵の対象者だったそうだ。妻と離婚して子を引き取りたがったが、妻の実家の反対にあって一旦は引いたものの、いよいよ尋問部に引き渡される段階になって里抜けを敢行、その際に嫌がる子供を無理やり連れ去ったということらしい。
「とばっちりを受けて辛い思いをするのは、いつだって子供なんだよな」
 手巻ノリの苦々しい呟きを、イルカはその肩をポンと叩いて受け止める。
「あぁ、だから早く連れ戻してやろうな」
 即席のツーマンセルが次々と出立していく中、イルカの組む相手が前に立った。
「俺の相手、イルカ先生だったの。よろしくね」
「カカシ先生もいらしたんですか、よろしくお願いします!」
 イルカが頭を下げると、早速だけど現地に向かいながら、と前置きしてカカシが駆け出した。
 カカシとは七班時代は時々飲みに行くこともあったのに、ナルトが修行に出て事実上解散となってからは受付でしか接点がなかった。カカシの受ける任務は受付を通さないものが多いので、それすらなくて見かけることもなくなっていたのだが。
 久しぶりに見るカカシの横顔は、口布の上からでも少し頬が削げたようにも思え、イルカの意識が一瞬だけ子供から逸れる。
「俺たちは死の森の北西から入ります。子供とは面識ありますか?」
「木守……いえ、日向アジサイという名前と顔だけは。あの子も俺の顔だけは知っている可能性がありますが、直接接触したことはありません」
 後方の屋根を跳ぶイルカに目をやったカカシが小さく頷く。
 それからイルカがついていけるギリギリのスピードで、二人は暮れ始めた里の中を駆け抜けた。



 死の森は中忍や特別上忍、上忍試験の他、時には暗部の訓練に使われることもあり、出入り口も正面以外にもいくつかある。
 その内で最も危険な森の深部にほど近い北西口に、音もなく降り立ったカカシに続き、息を切らせたイルカが後ろに降りた。
 情報部に渡された南京錠の鍵と術の二つで封印を解き、順に素早く体を滑り込ませる。
「森がざわついてる……ここに逃げ込んだというのは間違いないみたいですね」
 辺りを見回してカカシが呟くが、イルカにはその違いが分からなかった。
 さすが歴戦の忍といったところだが、この任務で最も重要なのは里抜けを目論んだ木守を追うことではない。それを念を押しておきたいと、捜索に入る前にカカシに伝える。
「今回俺たちアカデミー教員が上忍の皆さんと組まされたのは、アジサイの無事奪還が最重要だからです。足手まといかとは思いますが、どうぞご理解ください」
 イルカの強い口調に、カカシは隠されてない右眼を瞬かせると、にこりと微笑んだ。
「大丈夫、ちゃんと理解してます。ただ、逆もあると思ってください。子供の奪還が最重要だからこそ、死の森に逃げ込んだ上忍の対応策として俺たちが組まされてるんです。ここの生き物は上忍の手にも余るようなものが多い。くれぐれも注意して、森ではどうか俺の指示に従ってもらいたいです」
 大隊の長や暗部の隊長として常に命令を下す立場のはずなのに、格下の中忍を尊重した言い方をするカカシに、イルカは少し驚きながら頷いた。
 その間にもカカシは巻物を取り出して八忍犬を口寄せる。
「イルカ先生にはこの子を付けます。名前はビスケ。今後この子から離れないように」
 口早にそう言うと、残りの七匹に短く指示を与えて散開させた。
「それじゃ、俺たちは森の奥を目指します。木守が奥に向かうほど愚かでなきゃいいが……」
 カカシの呟きに近い言葉が終わる前に、森の奥からドォーンという爆発音が響いてきた。
 二人は顔を見合わせ、即座に駆け出す。
「たぶん俺たちが一番近い。イルカ先生はビスケより前に出ないで」
 近隣の森でも見たことがない捻くれた木々の枝を跳んでいくと、黒い煙の上がる所の手前で忍犬の脚が止まったので、イルカも樹上から降りずに下を見た。
 すると何かを抱えて眼下を駆け抜けていく男に続き、巨大な犬が低い姿勢で灌木の合間を縫って追いかけていく。
 カカシが枝の重なる影からイルカの隣に戻ってきた。
「まずいな……木守を追ってるのはクロキバオオカミだ」
 クロキバオオカミはその名の通り、牙が白ではなく黒い狼だ。
 それよりも最大の特徴は体躯の大きさで、一般的な狼の数倍どころか祭りの神輿くらいはある。また、牙だけでなく体毛から口の中まで全て黒いので、昼間でも暗い死の森ではその大きさにもかかわらず背景に溶け込んで音もなく獲物に忍び寄るため、たとえ忍でも圧倒的に不利だった。
 だが今はそのアドバンテージを生かさず、よろよろと木守を追っている。ところどころ大小の傷もバックリと口を開けているのが、黒い被毛の中に目立っていた。
 カカシが険しい眼差しを木守に向ける。
「木守が抱えてるの、アジサイじゃないですね」
「え、じゃあ誰を?」
 その問いには答えず、カカシは奇妙な音程の口笛をワンフレーズほど吹くと、枝を蹴って一人と一匹を追う。
 ビスケも走り出したので、イルカもそれを追った。
 カカシの背中越しにオオカミが、その左向こうに木守が見える。木守は里抜けをしたいはずなのに、森の最奥を目指しているようだ。そもそも、なぜわざわざ死の森に? と訝しんでいると、それを読み取ったかのようにカカシが振り返って答えた。
「森の奥には滝があるんです。そこに飛び込めば川から里外に出られる。死の森の猛獣たちに襲われさえしなければ、普通に抜けるより簡単で成功率が高い」
「アジサイは? あの子を抱えて滝壺から川を泳ぎ切るなんて無茶だ」
「ええ、だからどこかに置いてきたんでしょうね。あいつが抱えてるのは恐らく、クロキバオオカミの仔だ」
 その言葉に驚いてカカシの背中越しに木守を見るが、子供くらいのサイズの何かを抱えていることしか分からなかった。
 焦るイルカの耳に、前方から滝の落水音らしきドドドッという水音も聞こえてきた。
「待ってください、それならアジサイはどこに? あの子を探しに行かなきゃ!」
 方向転換しようとしたイルカの腕を、カカシが掴んで止める。
「子供の捜索はさっき忍犬たちに命じました。他のチームも全て捜索に回れと伝えるので、そっちは大丈夫。俺たちは木守を捕らえます」
 いつの間にと思ったが、先ほどの口笛がその命令を伝えるものだったのだと気付く。
 だがいくら弱ってるとはいえ、クロキバオオカミの攻撃を躱しつつ上忍を捕らえるというのは、口で言うほど容易くはない。
 そもそも木守は秘かに森を抜けるべきなのに、なぜわざわざオオカミの子供を連れ去るような真似をしたのだろうか。子供を拐って里抜けをしようとしたのに、肝心の子供を置いて代わりに仔狼を連れているなど意味不明だ。そうせざるを得ない何かが起きたのかと思っても、木守を捕らえなければ聞くこともできない。
 カカシもそう思っているようで、だからこそすぐには捕らえず、木守とクロキバオオカミの様子を窺いながら追っているのだろう。
 そうこうしてるうちに一行は滝の所まで来てしまった。
 このまま見守っていては、最悪みすみす見逃すことになってしまう。かといってクロキバオオカミは、手負いといえども上忍一人の手には余る猛獣だ。
 そして木守の目的は何なのかと訝って樹上から様子を見ていると、木守は抱えていた物を左手で高く掲げた。
 それは確かに真っ黒な仔犬に見えたが、大きさはゆうに普通の柴犬くらいはある。だが目も開いておらず、母を求めてきゅふきゅふと鼻を鳴らすところは、まだ本当に乳離れも済んでいない仔狼だと分かった。
「イルカ先生、俺の影がクロキバオオカミを抑える間に俺が木守を捕らえます。あなたは本体の俺の援護を」
「はい!」
 どういう術の改良を加えたのか、物音一つ立てずに分裂したかのようにカカシが一人増える。
 そちらが二人から離れ、クロキバオオカミの背後に回ろうとした、その瞬間。
「不本意だろうがここまでガードしてくれてありがとよ。礼に子供は返してやるぜ。ほらよっ」
 木守が左腕を大きく振りかぶり、仔狼を滝壺目がけて投げ落とした。

 その後のことをイルカはよく覚えていない。
 カカシが「イルカ先生!」と叫んだ気はする。
 木守も驚いたような声を上げていた。
 獣の吠える声も背後から聞こえた。
 滝壺へ落ちていく仔狼を追いかけて崖の縁を蹴り、ワイヤー付きクナイを片手に仔狼を宙でキャッチする。
 そのままクナイを投げると、それが崖の壁面に突き立った。だが刺さり方が甘かったのか、イルカと仔狼の重みに耐えかねてビンっと抜けてしまう。
 為す術もなく落ちていくのを抱き止めてくれたのは、カカシだった。不安定な壁面ではなく傍らの木の幹にワイヤーを巻き付け、イルカを追って飛び込んできたのだ。
「俺を伝って先に上がって」
「カカシ先生……はい!」
 仔狼をベストの胸元から腹部分に半分入れるように抱き、カカシを足場にしてワイヤーを登っていくと、崖から頭を出したところでクロキバオオカミの巨大な鼻先とお見合いした。
 イルカがひゅっと息を呑むが、狼は自分の子供の安否しか目に入らないようだった。仔狼が胸元からモゾモゾと這い出し、恐らくは母親であろう狼の長い鼻先に飛び付く。
 すると母狼は安心したのか長く息を吐き、崩れるようにゆっくりと横倒しになってしまった。
 相手が死の森の頂点近くに君臨するというクロキバオオカミだということも忘れ、イルカは慌てて地面に飛び上がって狼を見ると、倒れた下の地面にじわじわと血が広がっていく。
「待ってろ、今止血するからな! もうひと踏ん張りだぞっ」
 イルカが声をかけながら手当てをするが、恐らくは木守にやられたのだろう十箇所以上の傷口から、相当の出血があったようだ。たかだか上忍一人にここまでやられるとは考えにくいが、仔を盾にされたら母はなす術もなかったのかもしれない。
「手伝います」
 後から上がってきたカカシは、影分身と忍犬に拘束された木守をチラッと見てから、イルカと反対の背中側に膝を突いた。
 イルカの隣では、仔狼が甲高い声で鳴きながら母を呼んでいる。
「……もう、よい」
 嗄れた声がクロキバオオカミの大きく裂けた口から漏れた。
「お前、人語を解せる上に喋れるのか」
 人間と会話する忍犬を使役するカカシが、たいして驚いた様子もなく言葉を返す。
 母狼は苦しげに息を吐くと、イルカの方にその濃灰色の眼を向ける。
「ありが、とう。お前のおかげで、吾子は助かった」
「喋らないで。傷に障る」
「この傷ではもう、助からぬ。それよりも、お前……名は?」
「イルカ。うみのイルカだ。この人はカカシさんだ」
 イルカは手を止めることなく答え、傷口を大きく深いものから順に止血すると、医療用の溶ける糸で手早く縫っていく。カカシも集まってきた忍犬たちに仔狼を任せ、同じように手当てをした。
 すると母狼はその巨体を起こし、忍犬たちに囲まれた仔狼の方へと這うように近付く。とたんにじゃれつく仔狼に愛おしげに頬ずりをすると、イルカの方に顔を向けた。
「愛しい吾子……この子をイルカ、お前に、頼みたい」
 そう言って仔狼を鼻先でイルカの方に押しやった。
 無理に動いたせいか、また傷口が開いてどぷりと血が流れる。
「動かないで! 傷がまた」
「私が死んだら、皆が吾子とお前たちを食うために集まってくる……っ! どうか……イル、カ」
 最期の力を振り絞って唸るように伝えると、クロキバオオカミは力尽きたのか大きな犬頭をゴトリと落とした。
 母狼の言葉に手当ての手を止めたカカシが、仔狼を抱え上げ立ち上がる。
「この狼の言う通りだ……いつの間にか囲まれてる。イルカ先生、脱出します」
 有無を言わせない口調のところをみると、本当に猶予のない状況なのだろう。影分身が拘束された木守を抱え、忍犬たちと一足先に駆け出した。
 イルカは唇をグッと噛みしめ、急いでクロキバオオカミの口に兵糧丸を押し込むと立ち上がる。
「……すまない」
 片目をうっすらと開いたクロキバオオカミが、縋るようにイルカを見つめた。
「この子は俺が面倒をみるから大丈夫」
 力強く頷いてみせると、カカシと共に森の出口を目指して駆け出した。



 仔狼を抱えたイルカはカカシと二人、火影執務室で綱手の前に立っていた。
 一歩前に出たカカシが事の顛末を報告している。拘束された木守は情報部に連行され、アジサイも他のチームによって無事に発見、保護されたそうだ。
 そちらの状況と合わせて導き出されたのは、木守は親としての愛情からではなく、万が一の保険にアジサイを連れて里抜けを目論んでいたというものだった。途中クロキバオオカミの親子連れに鉢合わせて戦闘、足手まといになるアジサイを捨てて今度は仔狼を盾に、母狼を引き連れて他の猛獣避けにしながら滝を目指したようだ。
 そしてアジサイはなぜかクロキバオオカミの匂いが強く残る繁みに、見たことのない結界で隠されていたそうだ。
「お母さんオオカミが、ここでじっとしてなさいって。きっとお前の群れの誰かが助けに来るって教えてくれたから、怖かったけどじっとしてたの」
 まだショックの残る状態だったアジサイがそれでもしっかりと答えたのは、クロキバオオカミが人間の子供を助けたという驚くべき内容だった。
 クロキバオオカミは死の森での生態系の頂点近くに位置する。その匂いが濃く残る所に、クロキバオオカミの用いる特殊な結界で護られているならば、それがたとえひ弱な人間の子供でも誰も手出しはしないだろう。なぜ母狼がアジサイを護ろうとしたのか真意は謎だが、それでアジサイの命が助かったのは事実だ。
「クロキバオオカミは賢い。種は違えど同じ子供だからと母性が溢れた可能性が高いが、もしかしたら仔狼をアタシらに託さなきゃならないような事態も想定して、アジサイを助けたのかもしれんな……」
 綱手の痛ましげな眼差しを受け、イルカは思わず仔狼を抱く腕にぎゅうと力をこめる。それで眠っていた仔狼が目を覚まし、ピスピスと鼻を鳴らして丸い頭を左右に振り向けた。恐らくは母狼を探しているのだろうが、今はまだ眠っていてほしいと仔狼をゆらゆらと揺らす。
「それで? クロキバオオカミはイルカ、お前にそいつを任せたと言うんだな? ちょっと見せてみろ」
 イルカは頷いて進み出ると、仔狼を執務机越しに綱手に手渡した。
 仔狼といえど神輿ほどもあるクロキバオオカミの子だ。一般的な中型犬くらいの大きさ、重さはあるように思える。綱手は死の森の猛獣でも同じ生き物という判断なのか、仔狼の頭から腹に手をかざして診ていった。
「うむ、健康状態に問題はなさそうだ。だがこいつはちゃんと目も開いてないような乳飲み子だぞ。イルカ、お前は狼の、しかも仔の面倒をみたことあるのかい?」
 綱手の問いかけに、イルカは慌てて首を左右に振った。
「そうか……隣にカカシという、狼じゃなく犬ではあるが育成のエキスパートがいたにもかかわらず、その母狼はイルカに頼んだんだな?」
 そう言われると確かに不思議だ。カカシのことは犬に深い関わりを持つ者だと、匂いで当然分かったはずだ。かたやイルカは犬の事など浅い知識しかない。キバのいるクラスの担任になる時に、忍犬も一緒に授業を受けると聞いてかなり学んだが、それだけだ。犬を飼ったこともないし、忍犬を持ったこともない。
 ならばクロキバオオカミという相当レアな生き物の仔であることだし、やはりカカシに頼んだ方が良いだろうと口を開きかけると。
「うーむ、猛獣たちに食われると分かっていて今さら森に返すのも何だしな……それならイルカ、お前が面倒をみろ」
「ええ⁈ アカデミーや受付はどうするんですか! だいたいまだこんな赤ん坊なのに知識もない俺が育てるなんて、そんなの無謀ですよ!」
 拒否してもお構いなしに仔狼をポイと軽く返してきたので、イルカは慌てて抱き止めた。
「その為にカカシがいるんだろ。ちょっとデカいだけで同じ動物だ、狼も犬も変わらん。いいか、お前たち二人で面倒をみろ、これは命令だ。クロキバオオカミの成長データが取れる機会なんて、これを逃したら二度とないだろうからな」
「待ってください、そんな横暴な」
 カカシも巻き込まれたらたまらないとでもいうように慌てて口を挟んできたが、それくらいで五代目の決定は覆らなかった。
「その子がとりあえず独り立ちできるくらいまでだ。せいぜい一、二年だろ。その後で森に返すか口寄せの契約を結ぶか、また考えればいいさ。それなら母狼も安心してくれるだろうよ」
 母狼を持ち出されると、イルカもこれ以上拒否はできなかった。二人で前後して執務室を出ると、思わずため息をついてしまう。
「ま、しょうがないですよ、綱手様の仰ることですから」
 カカシの慰めに頷いて返したが、よくよく考えたら即席で組んだだけのカカシの方がとばっちりだったのではないか。
「あの、お忙しいのにすみません!」
 仔狼を抱っこしたまま勢いよく頭を下げたので、急に揺らされた仔狼が目を覚ましてしまった。今度はあやしても眠ってくれずイルカがおろおろしていると、その様子を見ていたカカシが「ちょっと失礼」と仔狼を抱き取り、口元に指先を当てる。すると仔狼はその指をチュバチュバと強く吸い出した。
「あぁ、やっぱり。腹減ってるんですね」
「え、じゃあお乳をやらんと……どこかに乳母犬してくれる優しい母ちゃん犬はいませんかね⁈」
 今にも乳母犬を闇雲に探そうと駆け出しかけたイルカを横目に、カカシは仔狼の前脚を握りながらニコリと笑いかけた。
「乳母犬を探さなくても、狼もミルクで大丈夫だと思いますよ。それにしてもお前、ぶっとい前脚だなぁ。この子はきっと、どんどん大きくなるでしょうね……」
 そう言うと仔狼を見つめていたカカシは、パッと顔を上げた。
「イルカ先生は確か独身寮でしたよね。この子はたぶん生後半月も経ってないと思うんですけど、それでこの大きさでしょ? よかったら俺の実家の方で一緒に面倒をみませんか。うちの忍犬たちが普段過ごしてる家だから庭もあるし、部屋も余ってるから」
「ええっ⁈ それはいくら何でも」
「嫌?」
「嫌ではないですよ! ただ、」
「じゃあ決まりね。俺はこのまま犬塚さんとこに寄っていろいろ仕入れてから行くから、イルカ先生はいったん家に帰って当面の荷物をまとめてきてください。それじゃ、後ほどここで」
 ほとんど一方的に決めたカカシは、どろんと煙を上げて消えてしまった。
 煙の中からひらりと紙切れが舞い落ちる。そこにはいつの間に描いたのか、簡略化された里の地図に家の絵が、そしてそれを大きな矢印が指し示していた。




 その後我に返ったイルカは急いでアパートに戻って私物をかき集め、カカシの実家だという平屋の前に立っていた。
 なぜこんなことになったんだと半ば呆然としながら玄関先でチャイムを鳴らすと、左手の庭の方から「こっちに回ってきて」とカカシの声がした。そちらの方に足を向けると、縁側で胡座をかいたカカシが仔狼にミルクを与えている。庭先では忍犬たちが思い思いにくつろぎながらその様子を見ていて、仔狼はカカシの足の間に座って腿に両脚を乗せ、必死に哺乳びんに吸い付いていた。
「取り急ぎ仔狼はこの子たちに頼んで、犬塚さんの所で授乳セットをいろいろ揃えてきたから。犬用だけど、ま、大丈夫でしょって。イルカ先生の荷物は居間の隣の部屋に置いてきてくれる? そこは当面の間好きに使っていいから」
 綱手の前では面倒くさそうにしていたのに、率先してかいがいしく仔狼の世話をしているのには驚かされた。
「……何びっくりしてるのよ。言っとくけど今後世話をするのはイルカ先生だから、ちゃんと見て覚えてね。あとたぶんミルク足りないから、台所で二本目を作ってきてください。子守りの経験は?」
「人間の赤ん坊のなら下忍の頃によくやってました」
「そ。なら大丈夫そうですね。基本的には人間と変わらないけどおむつは使わないから、下の世話の方法だけ後で教えます」
「お願いします。それじゃ、部屋の方ありがたくお借りしますね」
 矢継ぎ早に質問と指示を飛ばすカカシに、イルカは言われた部屋の方に向かいながら答える。
 与えられたのは庭に面した掃き出し窓と縁側のある南向きの部屋で、この家で一番良い場所なのではないかと思われた。リュックなどの私物を適当に置いて台所に行くと手を洗い、仔犬のイラストの描かれた缶を開けて哺乳びんにミルクを作り、温度を確かめる。それを持っていくと、カカシの見立て通りミルクが足りなかったのか、仔狼がきゅふきゅふと鼻を鳴らしながら空のびんを吸っていた。
「じゃあ交代ね」
 カカシの隣に座ると、空のびんを取り上げながら仔狼を渡してきたので、慌てて新しい哺乳びんを口に差し込んでやる。
「人間の赤ん坊は仰向けだけど、犬はうつ伏せで飲ませるようにして。あとこの子かなり大きいから、姿勢が安定するように胡座かいた足の間に入れて保定してあげて……そう、そういう感じ」
 イルカが座る姿勢を変えるとカカシが手早く仔狼の姿勢を整えてやり、仔狼は腿に前脚を乗せてミルクを飲み続けた。そして満腹になったのか哺乳びんから口を離すと、緩慢な動きの前脚でイルカの腿をぐいぐいと揉み始める。
「もう寝ちゃうかな? その前にミルク飲んだら、必ず濡らした手拭いで口周りを吹いてあげて。あと飲み残したミルクはとっておかないでね」
 カカシはてきぱきと指示をすると濡らした手拭いを手渡し、イルカが脇に置いた哺乳びんを持って立ち上がって台所へ行ってしまった。仔狼の口周りはカカシの言った通りミルクでびしょ濡れだったので苦笑しながら拭いてやると、仔狼を抱えたまま縁側にごろりと大の字になった。仔狼はイルカの腕を枕にスピスピと寝息を立てている。確かに満腹になったようで、パンパンに膨らんだ腹を無防備に晒していた。
「お前、腹いっぱいで幸せそうだなぁ。そういやお前って呼ぶのも何だから名前も決めねぇと。名前を付けてもいいのか、後でカカシさんに聞いてみような」
 アカデミーの生徒の誘拐事件から仔狼を引き取り、カカシの家での同居と慌しい一日だったが、ここでやっとひと息つけた気がする。
 台所ではカカシが哺乳びんを洗っているのか、水音が聞こえてきた。
 どこか懐かしいと思ったら、家庭の日常的な物音だ。家族が立てる、生活の音。
 知らずしらず笑みを浮かべていたイルカは、ゆるりと瞼を閉じていた。そういえばカカシと何度か飲みに行ったことはあっても、あんなに喋ったのを聞いたのは初めてだなと思いながら。



 ハッと目を覚ますと、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
 左側の脇腹から腿にかけてやけに暑苦しいと思ったら、仔狼がべったりと寄り添って眠っていた。すぐに見当たらなかったのは、イルカの腹にタオルケットがかけられていて仔狼を半分以上覆い隠し、尻尾だけがのぞいている状態だったからだ。
「起きました? 適当に弁当を買ってきましたけど、飯の前に風呂でも入ります?」
「あっ、はい! 何から何まですみません!」
 本来なら中忍である自分が整えておくべきだったのに、それどころか家まで提供してもらっている上、今のところ仔狼のミルクから自分たちの食事、風呂まで全て上忍のカカシが用意している。せめて今からでも何か役に立たねばと勢いよく起き上がると、仔狼がコロンと転がって起きてしまった。
「あー、ごめんな。よしよし泣くなよ」
 わふわふ、きゅうと鼻を鳴らす仔狼を抱き上げると、カカシがタオルと浴衣を抱えて戻ってきた。
「あー、起きちゃいましたね。次のミルクにはまだ早いから、ちょっとぐずってるだけかな。俺が見てるので先に風呂入ってきてください」
「え、いやでも俺がこのまま抱っこしてるんで、カカシさんこそお先にどうぞ」
 するとカカシは口布の上からでもはっきり分かるほどにっこり笑うと、抱えた布類と仔狼をするりと交換した。
「イルカ先生は熱湯みたいな熱い風呂が好きなんでしょ?俺そんなの入ったら湯あたりしちゃうから、先生が入った後くらいが丁度いいんです。その方が沸かし直さなくていいから経済的だし。ね?」
 熱い湯が好きなんて恐らく以前飲みに行った時の雑談ネタだろうに、よく覚えてるなと感心したイルカは、ついタオル類を受け取ってしまった。それに経済的と言われると弱い。
「その浴衣、よかったら寝間着代わりに使ってください。俺が普段使ってるので悪いけど、数だけはあるから。それじゃ、ごゆっくり」
「……何から何までありがとうございます」
 カカシのもてなしがいたれりつくせり過ぎて、どこから礼を言えばいいのかとイルカの口からはありきたりな返ししか出てこなかった。
 風呂場はアパートのよりも広く、小窓を開けると湯舟に浸かったまま月まで見えて快適そのものだった。だがさすがにのんびり長風呂する訳にもいかず、急いで上がって廊下を小走りに台所に向かうと、カカシはなぜか横向きに立ち、顔だけガスレンジに向けるという変な姿勢で雪平鍋の中身をお玉でかき回していた。
「弁当は買ってきたけど、味噌汁だけなら作ってもいいかと思って」
「ありがとうございます……あれ、あの子は」
 預けた仔狼が見当たらないので居間の方に目をやると、カカシが含み笑いをして体の正面をイルカに向けた。
「ここにいますよ。これ、大型犬の仔犬用の抱っこ紐なんです」
 カカシはベストを脱いでアンダーだけの姿に幅広の布地を斜め掛けにしていて、仔狼はその中にすっぽり収まっている。
「味噌汁を作るために居間でタオルケットに乗せておいたんだけど、離れると鳴いて俺を探し回るから危なくてね。そういえば犬塚さんからこれも渡されてたなって思い出して」
 それを見せられて、アカデミー生の母親が赤ん坊を抱っこするのに幅広い布のような物を使っていたなとイルカも思い出した。
「その抱っこ紐、スリングでしたっけ。赤ん坊を抱っこしてるお母さんがいましたけど、犬用もあるんですねぇ。あ、代わります」
「いや、これをあっちに運んだらもう食べられるから、その間は自由にさせといても大丈夫でしょ」
 仔狼は窮屈な布に収められているのに暴れることもなく、むしろ快適そうにカカシの胸辺りに頭をもたせかけていた。それがまるで親子のようで、思わずニコニコしながら卓袱台の弁当の前に座る。カカシも頭からスリングを抜くと、布ごと仔狼を畳の上に置いた。
「さ、冷めちゃう前に食べましょ」
「あ、はい。いただきます」
 二人で箸を取るが、自然と視線は仔狼に吸い寄せられてしまう。
「あの、味噌汁うまいです。ありがとうございます」
「ん」
 仔狼の話題がないと、とたんにカカシは無口に戻ってしまった。
 二人でなんとなく仔狼に目をやりながら箸を使っていると、カカシが唐突に口を開く。
「たぶんだけど、この月齢だからね。ずっと母狼と一緒にいたから、体温や気配がなくなると不安なのかも」
 何の事かと首を傾げそうになったが、先ほどのスリングで抱っこしながら料理をしなければならなかった状況の分析をしたらしい。
「なるほど、そういうことだったんですね」
 イルカは無難な相槌を打ちながら、内心でプライベートのカカシのコミュニケーション下手っぷりに驚いていた。二人で飲みに行った時は、子供を相手にするコツを教えてほしいという要望に応えてほぼ一方的に喋っていたから気が付かなかった。
 任務やそれに近い事は流暢に話せるのだろう。だが雑談や世間話になると、とたんに困ったように無口になる辺り、もともと苦手なのかもしれない。
 今まで知らなかったカカシの人間らしいところに、イルカは一気に親近感を覚えた。それでふと、寝落ちる前に考えていたことを思い出す。
「あの、この子に名前を付けたらまずいですかね。あんまり人間といることに慣れたら良くないとは思うんですけど、やっぱり名前を呼んでやりたくて」
 急に聞かれて驚いたのか、カカシはちょっと目を瞬かせると、スリングに絡まってコロコロ転がって遊んでいる仔狼に目を向けた。
「いいと思いますよ。イルカ先生の好きにしたらいい」
 突き放したようにも思える言い方でも、カカシの仔狼を見つめるその眼差しの優しさと温かさに、イルカは一瞬返す言葉を失った。
 急に胸に突き刺さった想いが何なのか、分からないままイルカも仔狼に目をやる。すると仔狼はその視線を感じ取ったのか、見えないながらもイルカの方によろよろと近寄ってきた。大きさは普通の中型犬くらいあっても、やはり仕草や外見は仔狼だ。まだ鼻面も突き出ておらず、おでこも丸くて全体的に丸みのあるフォルムは狼というよりは犬っぽい。その鼻先に手を伸ばすと顔を押し付けてきたので、どうやらこの短時間でこの『手』というのは撫でてくれるものと学習したらしい。
「お前、でっかいけど本当に赤ん坊なんだな。かわいいなぁ」
 撫でながらよく見ると仔狼は黒一色ではなかった。赤ん坊だからなのか、それともこの仔特有の個体色なのか、黒に灰色がかった毛や焦げ茶まで濃い色合いがごちゃまぜになっている。それがまるで狸みたいな模様に見えて──
「……ポンポ」
「え? 何ですか」
「こいつの名前です。狸みたいな模様だから、ポンポコ狸のポンポ。可愛いでしょう」
 自慢げに説明するイルカに、カカシは呆気にとられたのか一瞬呆けたような顔をしたが、なんとか態勢を立て直した。
「狸? この仔は狼ですよ? しかもあのクロキバオオカミなんだから、もっとこう、威厳というか……」
「あっ、目が開いた! カカシさん、ポンポの目が開きましたよ!」
 カカシの反論は、初めて目が開くというイベントにかき消されてしまった。だが仔狼の目が開いたと言われて無関心でいられる訳がないのだ。カカシは忍犬を八匹も契約し、長期任務の時以外は犬塚家に預けずに自宅に放しているのだから。
「うわぁ、綺麗な青だなぁ。ちょっと灰色も入ってますね。ほらポンポ〜、俺がイルカだぞ~」
「これ、開いただけでまだハッキリは見えてないんですよ」
「そうなんですか」
 食べかけの弁当を放り出して、二人で代わる代わる仔狼を覗き込む。
「かわいいですねぇ……あ」
 ポンポに夢中になるあまり、いつの間にか二人で額を突き合わせていた。今まで気付かなかったというか意識していなかったが、カカシの右目の色は灰色がかった深い青だった。
「ポンポの目の色、カカシさんとおんなじですね。体毛は白と黒で対称的ですけど、なんだか親子みたいじゃないですか?」
 イルカの無邪気な一言に一瞬目を見開いたカカシは、スッと身を引いて目を伏せてしまった。額当てで押し上げられてない前髪はかなり長く、蛍光灯の下では鈍い銀色の向こうに、綺麗な灰青色が隠されてしまう。
「そろそろミルクかな。今は三、四時間おきだから、夜もよろしくお願いします。俺は風呂に入ってくるので」
 立ち上がったカカシは怒ってはいないようだが、写輪眼ではない方だとしても獣である狼と同じ目の色と言うのは『写輪眼のカカシ』に対して失礼だったかと肩を落とす。
 なので、弁当箱と味噌汁の椀を手早くまとめて去っていくカカシの頬が仄かに赤くなっていたことに、イルカは気付けなかった。